松尾多勢子の墓(下伊那郡豊丘村の見る)その他(名所)

松尾多勢子の墓(まつおたせこのはか)は長野県下伊那郡豊丘村にあります。ここは見るです。「その他(名所)」などとなっています。

松尾多勢子は、江戸時代後期の1811年、山本村(現在の飯田市山本)に生まれ、幼少の頃から読み書きや和歌を学びました。19歳のとき伴野村(現在の豊丘村伴野)に嫁ぎ、家を切り盛りしながら三男四女を育て上げました。当時の伊那谷は国学が盛んで、多勢子はその影響を大きく受けました。  多勢子は主婦の座を嫁に渡した後、52歳のときに単身上洛しました。和歌を通じ、「信州から出てきた歌詠みばあさん」というふれこみで、勤王倒幕派の公家や志士たちとの連絡役を務めたほか、幕府の機密情報の収集にも当たり、勤王倒幕派の活動を陰で支えました。また、当時「和宮降嫁」に関係したため「佐幕派」とみられ命を狙われるほどだった岩倉具視に接触してその真意を確かめた上で、「岩倉が佐幕派でないこと」を勤王志士たちに説いて、岩倉が勤王派に受け入れられるきっかけをつくりました。この後、岩倉具視は明治維新の立役者として活躍することになります。  一旦は帰郷しますが、明治維新後、多勢子は岩倉具視に請われて再び上洛し、岩倉家の家政一切を取り仕切り「岩倉家の女参事」と呼ばれました。新政府の確立を見届けた後は帰郷し、農業や養蚕にいそしみながら晩年を過ごし、明治27年(1894年)に84歳で亡くなりました。  幕末の激動の時期に、当時の地方の女性としては異例の活躍をしたのが松尾多勢子です。お墓は慈恩院東裏松尾家墓地内にあります。(*1)

近くの住所には、阿島区北(1.45 Km)があります。近くの施設やイベントには、しゃくやく園(1.12 Km) があります。(2015-02-16 15:45:30時点)。
カッコ内の数字は施設の件数または距離です。このサイトの情報は『注意事項』を確認した上でご利用ください。

スポンサーリンク

1 施設

この施設/場所の基本情報です。市区町村都道府県のリンクから その地域のカテゴリーと種類の情報を見ることができます。

1 名称 松尾多勢子の墓
2 よみ まつおたせこのはか
3 住所 下伊那郡豊丘村神稲7757(慈恩院東裏 松尾家墓地内)
4 郵便番号 399-3202
5 ホームページ URL http://www.vill-nagano-toyooka-kanko.jp/2014/12/19/%E3%80%90%E5%B9%95%E6%9C%AB%E3%81%AE%E5%A5%B3%E5%82%91%E6%9D%BE%E5%B0%BE%E5%A4%9A%E5%8B%A2%E5%AD%90%E3%81%AE%E5%A2%93%E3%80%91%E6%85%88%E6%81%A9%E9%99%A2%E6%9D%B1%E8%A3%8F%E6%9D%BE/
6 市区町村 下伊那郡豊丘村
7 都道府県 長野県
8 場所の種別 見る
9 緯度・経度 35.535811, 137.892248
10 緯度経度の精度 ORIGINAL
11 更新日付 2015-02-16 15:45:30

2 地図

住所を元にした地図

緯度・経度を元にした地図

3 オープンデータの一覧

No. 種類 カラムデータ
1 ジャンル その他(名所) その他(名所)
2 駐車場 都道府県 長野県
3 利用期間 種別 その他
4 季節 春夏秋冬
5 情報 通年
6 予約情報 ホームページ http://www.vill-nagano-toyooka-kanko.jp/2014/12/19/%E3%80%90%E5%B9%95%E6%9C%AB%E3%81%AE%E5%A5%B3%E5%82%91%E6%9D%BE%E5%B0%BE%E5%A4%9A%E5%8B%A2%E5%AD%90%E3%81%AE%E5%A2%93%E3%80%91%E6%85%88%E6%81%A9%E9%99%A2%E6%9D%B1%E8%A3%8F%E6%9D%BE/
7 写真 撮影場所 松尾多勢子の墓
8 写真の名前 松尾多勢子の墓
9 写真の名前(よみ) まつおたせこのはか
10 写真
11 著作権有無
12 基本情報 ホームページ http://www.vill-nagano-toyooka-kanko.jp/2014/12/19/%E3%80%90%E5%B9%95%E6%9C%AB%E3%81%AE%E5%A5%B3%E5%82%91%E6%9D%BE%E5%B0%BE%E5%A4%9A%E5%8B%A2%E5%AD%90%E3%81%AE%E5%A2%93%E3%80%91%E6%85%88%E6%81%A9%E9%99%A2%E6%9D%B1%E8%A3%8F%E6%9D%BE/
13 場所(よみ) くましろ(じおんいんひがしうら まつおけぼちない)
14 経度 35.5
15 緯度 137.9
16 駐車場 郵便番号 399-3202
17 料金有無 有料
18 市区町村 下伊那郡豊丘村
19 基本情報 名称 松尾多勢子の墓
20 名称(よみ) まつおたせこのはか
21 管理情報 最終修正日時 2015-02-16 15:45:30
22 参照枝番 162,998
23 参照番号 20416KANKO0162998
24 市区町村コード 20,416
25 情報提供元 長野県下伊那郡豊丘村
26 ジャンル 中ジャンル その他
27 大ジャンル 見る
28 基本情報 説明 松尾多勢子は、江戸時代後期の1811年、山本村(現在の飯田市山本)に生まれ、幼少の頃から読み書きや和歌を学びました。19歳のとき伴野村(現在の豊丘村伴野)に嫁ぎ、家を切り盛りしながら三男四女を育て上げました。当時の伊那谷は国学が盛んで、多勢子はその影響を大きく受けました。  多勢子は主婦の座を嫁に渡した後、52歳のときに単身上洛しました。和歌を通じ、「信州から出てきた歌詠みばあさん」というふれこみで、勤王倒幕派の公家や志士たちとの連絡役を務めたほか、幕府の機密情報の収集にも当たり、勤王倒幕派の活動を陰で支えました。また、当時「和宮降嫁」に関係したため「佐幕派」とみられ命を狙われるほどだった岩倉具視に接触してその真意を確かめた上で、「岩倉が佐幕派でないこと」を勤王志士たちに説いて、岩倉が勤王派に受け入れられるきっかけをつくりました。この後、岩倉具視は明治維新の立役者として活躍することになります。  一旦は帰郷しますが、明治維新後、多勢子は岩倉具視に請われて再び上洛し、岩倉家の家政一切を取り仕切り「岩倉家の女参事」と呼ばれました。新政府の確立を見届けた後は帰郷し、農業や養蚕にいそしみながら晩年を過ごし、明治27年(1894年)に84歳で亡くなりました。  幕末の激動の時期に、当時の地方の女性としては異例の活躍をしたのが松尾多勢子です。お墓は慈恩院東裏松尾家墓地内にあります。
 

4 町域の一覧

No. 市区町村 町域 距離
1 下伊那郡喬木村 阿島区北 1.45 Km
2 阿島区寺の前 1.59 Km
3 阿島区郭 2.01 Km
4 阿島区町 2.02 Km
5 下伊那郡高森町 下市田 2.18 Km
6 下伊那郡喬木村 阿島区南 2.55 Km
合計:

5 近くの施設一覧

No. 名称 住所 種類
1 松尾多勢子の墓 (0 m) 下伊那郡豊丘村神稲7757(慈恩院東裏 松尾家墓地内) その他(名所)
2 しゃくやく園 (1.12 Km) 下伊那郡豊丘村神稲4245-1 植物
3 百体庚申 (1.23 Km) 下伊那郡豊丘村神稲(南市場) その他(名所)
4 壬生沢不動滝 (1.69 Km) 下伊那郡豊丘村神稲 壬生沢西 河川景観
5 アイリス園 (2.04 Km) 下伊那郡豊丘村神稲2050 植物
6 成田不動滝 (2.13 Km) 下伊那郡豊丘村神稲 壬生沢西 河川景観
合計:

6 クレジット

1 名称 公共クラウドシステム | API公開サイト(サイト停止中)
2 オープンデータのページURL https://www.chiikinogennki.soumu.go.jp/k-cloud-api/search/download/
3 ファイル名 kanko_all.csv
4 更新日付 2019-07-10
5 クレジット このページは、次の著作物を改変して利用しています。公共クラウド(総務省)、観光情報、CCライセンス 表示 2.1 日本(http://creativecommons.org/licenses/by/2.1/jp/
6 ライセンス 公共クラウド利用規約(https://www.chiikinogennki.soumu.go.jp/k-cloud-api/code/

注釈

  • (*1) オープンデータの情報を引用しています。

スポンサーリンク

注意事項

免責について